ちいちゃんはぎんなんを食べないけれど
金曜日は仕事で銀行に行くことが多いので、車のなかでほんの少しの間だけれどラジオを聞くことができる。
で、
午後いちばんで銀行に行くときは、だいたいNHKラジオのごごラジを聞いている。絵本を通して高橋久美子さんがパーソナリティーを務めていると知ってしまったからなおさら。
先週はたまたま午後いちばんに銀行に行ったので、車のなかで少しごごラジを聞くことができた。ちょうどオープニングトークをしているところで、ところどころしか聞けないのだけれど、どうやらぎんなん拾いのおはなしみたい。
なんか、
高橋さんだと認識してしまうと、これまで以上になんだか親近感が湧いてしまうから不思議。なんでもないおはなしが面白い。
いや、なんでもなくもないのかな。高橋さん、やっぱりちょっと変わっていてなんか素敵。褒め言葉なんですよ。ほんと素敵だな。
旅行かなにかで訪ねた神社かお寺にいちょうの木があって、ぎんなんがたくさん落ちてたそうなんですね。神社かお寺のかたに聞いたら拾ってもいいとのこと。で、いっぱい拾ったそうなんですが、拾っている最中いろんなかたに声をかけられる。
「ぎんなんはアルカリ性だから、そのまま素手で拾うとかぶれるよ」
「ぎんなんはしばらく土のなかに埋めとくといいんだよ」
「ぎんなんは食べ過ぎると身体によくないよ」
などなど。
きっと、声をかけやすい人柄なんだろうな。高橋さんはだんなさんとなかの実だけをたくさん拾って帰ったんだとか。
***
こどもの頃、毎年秋になるとぼくは父と一緒に自転車でぎんなんを拾いに行った。自転車で30分くらいかかる場所にある神社だから、決して近いわけでもない。
荻野神社という神社で、小さな社だけれど立派ないちょうの木があってたくさんのぎんなんが落ちていた。くさいなあ、なんて言いながら父と一緒にたくさん拾った。たくさん拾って帰ると母が「すごいねえ」と微笑んでくれた。
うちではだいたい皮の着いたまま拾って帰り、しばらく庭に埋めておいた気がする。拾ったあとは父が処理していたから記憶は不鮮明なのだけど、多分皮が柔らかくなってからなかの実を取り出して干していたんだと思う。
だからうちでは秋になると毎年、ぎんなんの複雑な匂いに包まれる。そんな匂いは嫌なものだったけど、皮を剥いたぎんなんはきれいなエメラルドグリーンで、軽くあぶって塩を振って食べたり、茶碗蒸しにしたり、料理が苦手な母はそのままお味噌汁に入れたりもしていた。どんな食べ方をしても、季節の味は美味しかった。
無口な父がどう思っていたか知らないけれど、ぼくは父とそんなふうにぎんなんを拾いに行くことが好きだった。漕ぐとぎこぎこと、なんだかへんな音のする自転車に乗った父の背中を、ぼくはいまでも昨日のことのように思い出すことができる。
なんて、
まるでもういないかのような書きっぷりだけど、父はいまでもちゃんと健在で、でも80歳に近い父の背中はいつからかずいぶんと小さくなって、いまはリウマチで通院をしている。
いつか通る道なのだと分かってはいても、大きかった背中が小さくなるのはぼくに微かな痛みを与える。自分のことにめいっぱいで両親を訪ねることも少ないぼくはとても親不孝に違いない。
「大丈夫だよ」
と、いつも両親は電話口で答える。でも大丈夫なはずなんて、ほんとはないはずなのだ。もうこれ以上甘えていることもできないなと思う。幸い、いまならまだ間に合うのだ。だからこれからはもっと足繁く通うことにしよう。ちいちゃんを連れて。
なぜか、
高橋さんのラジオを聞いて、ぼくはそんなことを考えた。