スピッツ
大分、涼しくなってきたので、ここのところちいちゃんは自転車の練習に励んでいる。といっても最近ぼくが休日も出勤になることが多いので週に1回、それほど長くもない短い時間だけど。
補助輪を取ったのが去年の年末頃で、それからちょっとずつ練習はしていたのだけれど、パパの教え方が上手くないのか、ちいちゃんの苦手意識が強すぎるのか、なかなか上達しないでいた。
けどここのところなんだかとてもいい調子で、もちろんぼくが自転車を支えたままだけれどちいちゃんの漕ぐ自転車がずいぶんと安定してきた。右足で蹴りはじめて左足をペダルに載せる動作もスムーズになってきて、苦手だった漕ぎ出しもマスターしつつあるみたい。
漕いでるあいだ、このまま手離しちゃっても大丈夫なんじゃないかななんて思ったりもするんだけれど、そんなぼくの気持ちが伝わるのか、前を向いたまま漕ぎ続けながら、「パパ、絶対離しちゃダメだからね」と、ちいちゃんは言った。
でもさ、
ちいちゃん。
きみはもう大丈夫。苦手だった自転車もじきにできるようになって、それはなんだかぼくにはまぶしいくらいに素敵なことだなって思う。
***
ごっこ遊びをしているときのちいちゃんは、ぐるぐるいろんな表情を見せてくれて面白い。歌を歌い出したり、踊り出したり。最近、特にすごいなあと思っているのは、キャラクターの声で、ちょっとした声優さんばりにいろいろなキャラクターを演じ分ける。
「ちいちゃんてさ」と、ぼくは言ってみたことがある。「声優さんとかになったらいいかもね。なかなかそんなにいろいろな声、出せないよ」
「そうかな」と、ちいちゃんは言った。「でもさ、パパもなかなかのものだと思うよ」
「プリキュアもそうだし」と、ちいちゃんは続けた。「仮面ライダー、パトレンジャー、スレイヤーズ、アドベンチャータイム、ミッキー、人形遊びのときさ、なんでもやってくれるもんね。わたしがね、好きなのはね、怒ったドナルドと、あとかっこつけすぎなピッツァ・スティーブかな。あんまり似てないけど」
あんまり似てないけど、と言われるとあんまりうれしくないけれど、というかぼくはどれだけごっこ遊びに付き合ってるんだろう。でも多分ちいちゃんは褒め言葉として言っているから、素直にありがとう、とぼくは言った。
「でもね」と、ぼくは続けた。「そういうのとちょっと違うんだ。パパはちいちゃんが喜びそうな話し方は分かってるからさ。ちいちゃんに面白いって思ってもらえるような話し方はできるんだけど、みんなが面白いって思ってくれるわけじゃない。けど、ちいちゃんのはさ。それとは違ってね。なんか素敵なんだよね、似ているっていうんじゃなくてオリジナルでそんな声のキャラクターでもいいんじゃないかって思わされちゃうんだ」
ぼくは小学2年生の女の子相手になんて理屈っぽい話をしているんだろう。でもちいちゃんはおおまか分かってくれたみたいで、ありがとうと言った。
「でも、わたしの夢はデザイナーなんだけどね」と、ちいちゃんは言った。「素敵なドレスとか好きだし」
「そうだよね」と、ぼくは言った。「知ってる。ひとりの時、よくノートにドレスの絵を描いてるもんね」
「あんまりうまくないけど」
「そんなことないと思うよ」と、ぼくは言った。「すごく上手に描けてる」
「親バカだなあ」と、ちいちゃんは笑った。そしてぼくを見て言った。「パパはさ、夢はなんなの」
なんだかそんなことを聞かれるとちょっと戸惑ってしまう。いまこの歳になって夢っていったいなんなんだろう。家族を幸せにしたいし、まあ、仕事もがんばりたい。誰かの役に立ちたいし、助けてあげたいとも思う。でもそれって夢とは言わないと思うし。
「なんだろうなあ」と、ぼくはしばらく考えて呟いた。するとちいちゃんはなんだかいたずらっぽく笑いながらパパはさ、あれだよねと言った。
「パパはさ、あれだよね。スピッツ」
「スピッツ?」
「そうスピッツになるのが夢でしょ」
ぼくは思わず笑ってしまった。「それってスピッツの一員になるってこと?」
「うん」
ぼくはなんだか、多分ほんとうに久しぶりに大きな声で笑ってしまった。「いや、それほんと叶ったらうれしいかも」
「でしょ」と、ちいちゃん。
「けどさ」と、ぼくは続けた。「パパってさ、音痴だし、楽器もできないよ。それでスピッツになれるかな」
「大丈夫だよ」と、ちいちゃんは言った。「エレクトーンはわたしが教えてあげられるし、そうだ。ピアノはママが教えてあげられるよ」
「うわ」と、ぼくは言った。「それはとてもうれしいけど、果てしなく遠い道のりだね」
「大丈夫だよ」と、ちいちゃんは自信満々に言った。「信じていればできないことはないって、いつもパパ言ってるし」
まあ、
たしかにね。
***
それはただの笑い話だけれど、そんなことがあってから少しぼくも考えるようになった。ぼくはもう40過ぎのおじさんだし、誰かに誇れる特技もないけれど、でもぼくだってもっと真摯に何かを追い求めるべきなのかもしれない。
醒めない。
ぼくにはいままでそういう出会いがなかったと思ってきた。でもほんとうはぼくが追い求めなかっただけなのかもしれない。
どちらにしても手の届かないものかもしれないけれど、でもだからって別に諦めることなんてなかったのだ。40過ぎのおじさんもまだ、できないことができるようになることだってあるかもしれない。
ぼくが、また小説を読むようになったのはそんなことがあってからで、いつかまた機会があったらちいちゃんに言ってみようと思っている。
パパの夢はね、小説家になることなんだ。