私のお気に入り
ぼくはたばこは吸わないしお酒も会社行事とか以外はほとんど飲んだりしないのだけれどコーヒーだけはちょっと、中毒なくらいに飲んでしまう。
といって、
別にこだわりがあるわけでなくインスタントコーヒーを、知らないひとから見たら笑っちゃうくらい濃くして飲むのが好きだっただけ。
で、
独身のころのぼくはそんな不気味に真っ黒いコーヒーを一日に何杯も飲んでいたのだけれど、そんな真っ黒な液体をみた妻は、
「そんなの毎日何杯も飲んでたら死んじゃうよ!」と、びっくりした様子。そして言いました。「今日からコーヒーは1日3杯までね」
「そうなの?」まだ若くて、健康とか気にしないでいた古きよき時代のぼくはそう言いました。
というわけで制限をされることになったぼくの大好きなコーヒー。以来ぼくはその約束を守っていて、ぼくは会社での仕事中に缶コーヒーを午前と午後に1本ずつだいたい飲んでしまうので、家ではほとんど飲まないようにしていてそのかわりに飲むようになったのが甘くないココア。
ぼくはクッキーとかパンケーキとかをわりかしよく作るので家にはたいてい純ココアがあって、あるときコーヒーのかわりにこれをお湯でといて飲んだらいいんじゃなかろうかと思ったわけです。以来、ぼくのコーヒータイムはココアタイムに変わりました。
さて、
そんなわけで昨日もぼくは夕食後、ちょっと洗い物もひと段落ついたころにココアを飲もうとしてココアをカップに入れようとしたところ、
「わたしが入れてあげるよ」と、ちいちゃんが言いました。うれしいのだけど、ココアはこぼすとやっかいなんだよなあと思って、
「こぼすからヤダ」と答えました。以前にこぼして大変なことになったことがあったからです。
「なんでー」と、頬をふくらませながらちいちゃんは猛抗議です。「もーわたしこぼさないもん」
「ほんとー」と、ぼくは笑いながら言いました。「それじゃあ、すみませんがよろしくお願いいたします」
「わかりました」ちいちゃんはニッと笑いました。で、ちいちゃんは言葉通りこぼさずにカップにココアを入れたのですが、ココアをじっと見ています。
「これ、おいしいの?」と、ちいちゃん。「ココアでしょ」
「ん」と、ぼく。「おいしいよ。甘くないけど」
ちいちゃんは甘いココアしか飲んだことがなくて、ぼくが飲もうとしているのは甘くないココア。でも香りはおんなじような甘い香りがするわけです。
「舐めてもいい?」と、ちいちゃんは言いました。いいよ、とぼくは答えました。そして、
振り向いたちいちゃんを見て、ぼくは思わず吹き出してしまいました。口もとがおはぐろしたみたようになっているじゃないですか!
それで、なんだか涙目でごほごほと咳き込むちいちゃん。ぼそぼそ粉っぽいココアを大量に口のなかに入れてしまった様子。
「いったいどれだけ舐めたの」と、なぜか慌ててしまうのはぼくです。「ほら、お茶飲んで飲んで」
「だいじょうぶ」と、ちいちゃんは言いました。「咳しただけだから。咳だから。ココアのせいじゃないよ」
ほんと?
***
そんなわけでココアはコーヒーを制限されたぼくのお気に入りなわけですが、このおはなしは余談。
仕事始めの日から、会社の新年会、組合関係の賀詞交歓会と夜遅くなる日が金曜日、土曜日と続いてしまったので、日曜日の夜は妻のお気に入りのレストランを予約しました。
藤沢にあるサンマルクレストランというところで、ちょっとしたコース料理と一緒に焼き立てのパンが食べ放題で食べられます。
我が家のひとびとはどうしようもないくらい全員パン好きなので、記念日とかにはだいたいこのお店を利用しているのですが、このお店ディナーではピアノの生演奏とかも楽しめたりするのです。
まあ、
そうは言ってもいままでのぼくは音楽はからっきしでして曲名もなにも分からないから、素敵だなあくらいの感想しか言えなかったのですが今回はちょっと違っていました。
というのも、小学生になってからちいちゃんはエレクトーンを習っていてその日の生演奏ではちいちゃんがちょこっと弾けるようになった曲が流れたからです。それが「私のお気に入り」という曲。
ぼくはもちろん全然知らなかったのですが、「そうだ、京都に行こう」のCMでも流れている曲で、もともとは「サウンド・オブ・ミュージック」の曲だそうです。映画は観たことがあったのにまったく記憶にないのも情けないですけど。
ねえ、
ちいちゃん。
きっとちいちゃんは気づいていないだろうけれど、エレクトーンの前でその曲を弾きだした背中を見たぼくはとてもびっくりしたんだよ。
ママは昔、ピアノを習っていたというから不思議ではないんだろうけれど、小さかったちいちゃんが楽譜を見ながらエレクトーンを弾く光景はぼくにはなんだかとても感動的だったんだ。
「バカにしないでよね」って、ちいちゃんには言われちゃうかもしれないね。でもそうじゃなくて、うまく言えないのだけれど。
少しずつ、少しずつ、けれど確実に成長していくちいちゃんに、ぼくはとてもとても感動したのです。
そしてぼくは思ったんだ。
ぼくもちいちゃんに負けないようにがんばらなくちゃいけないなって。ぼくはこれまでいろいろなことをあきらめてきたから。
勝手に壁を作って、勝手に引き返してた。妻と結婚して、ちいちゃんが生まれたいまでもぼくはほんとうに、とてもとても弱いひとだ。情けないけれどいつだってぼくは、妻とちいちゃんを守れるだろうかって自信がない。
でもね、
いまさらだけど、
もういちどぼくも、果てを目指してみようかと思うよ。きっとまだ、間に合うよね。